4回も死ぬところだった
4回も死ぬところだった
一 危うく焼け死ぬところだった
高校三年生だった昭和四十五年。
ある日曜日の夕方、同居の同級生は実家に帰り、私一人。
なぜかいつのまにか眠ってしまった。
すると、外の騒ぎで目覚めた。
彼らは合宿中の野球部の連中で、練習を終え近くの銭湯へ行った帰りだった。
第一発見者の彼らが、「火事だ!」と叫びながらこちらに駆け寄って来た。
「物(家財道具など)を投げろ、隣が燃えている!」と言われ、窓から顔を出すと、なんと、勢いよくこちらに
向かってくる炎が見えた。
隣は、大家が経営している製材所内の休憩所となっており、アパートとは棟続きになっていた。
私の部屋は火元に最も近い二階。乾燥と木造のため、火は瞬く間に二階を覆い尽くした。
荷物を出す余裕もなく、とにかく外へ逃げるだけで精一杯だった。
もし、野球部の連中が合宿していなかったら、焼け死んだかも知れない。
その火事では、失火責任と賠償について学んだ。
二 一酸化炭素中毒で体が動かない!
小隊長だった昭和五十四年。中隊は演習場整備を終え、野営地で、夕食を兼ねた打ち上げのさなか。
若い小隊長は隊員の労をねぎらったつもりが、年配の陸曹から飲まされ、よい気分になっていた。
アルコールと疲れで突然眠気に襲われ、数十メートル離れた天幕内に横たわった。中央に静かに燃える炭火。
風が冷たいので入り口を閉じ、眠った。寒くて目覚めた。体が動かない。
「え?もしかして一酸化炭素中毒か?」何としても外の新鮮な空気を吸わないと死ぬ。
必死で入口へ移動しようとしてもできない。
声も出ない。
とその時、突風が吹いて、入り口の隙間から新鮮な空気が入ってきた。
思いっきり吸い込む。
どうにか動く。
頭だけ外へ脱出。
しばらくすると意識と体が回復した。
もし、目覚めなかったら、もし、突風がなかったら命を落としていた。
この件では、目に見えない危険を、身をもって体験した。
三 高速道路で大事故、気づくと病院内
AOCを卒業し、後方を走る同期生とともに東北自動車道を北上していた。
福島県二本松付近を走行中、バックミラーで、同期生の車が追随しているのをのんびりと確認していた。
その場所は直線道路から緩やかな左カーブへ移行するところ。
すると突然、意識を失った。気づくと病院だった。
つまり、バックミラー内の同期の車に気をとられ、道路は緩やかな左カーブなのにハンドルは直進状態。
中央分離帯のワイヤーロープに接触、車は回転。
その回転中に高速バスがすり抜けた。
私は右目付近から出血し気を失い、病院に運ばれた。
同期生は、「死んでもおかしくない事故だった」という。
この事故で「前をよく見ること、運転に集中すること」を学んだ。
教訓はその後の隊員指導に活用した。
四 食中毒で「もはやこれで死ぬのか」
平成二十六年晩秋の日曜日の午後六時三十分頃、妻が腕をふるった新鮮なイカ刺しで晩酌を楽しんだ。
そして就寝前の二十一時三十分頃、突然、胃の中にあるものが勝手に吐き出された。
そして激しい腹痛と全身けいれん。
会話不能。
薄れる意識。
担架に乗せられ、救急車に。
「もはやこれで死ぬのか。しかし、死ぬ準備ができていない。」
直ちに循環器系や神経系の検査を受ける。
翌朝から内視鏡カメラによる消化器系の検査。
麻酔で完全に意識を失った。
気づくと先生が「これが悪さをしていたんだよ」と言って、
小瓶にはいった二センチメートルくらいの白い糸のような寄生虫の「アニサキス」を見せられた。
寄生していたイカ刺しとともに私の胃袋にはいった「アニサキス」は、
胃酸から逃れようと必死になって胃壁に突き刺さった。私の体も異変を感じて、異物を吐き出して、
体を守ろうとした。お互いに、生きるための戦いだった。
この経験を通じて、命あるものを食べ、生きながらえていることに心から感謝をしなければならないと強く悟った。