共に喜びを分かち合う習慣を取り戻そう
修親2009.5
共に喜びを分かち合う習慣を取り戻そう
仙台・準会員 三上ヒサミ
数年前、世の中はものすごくおかしいのではないかと思った。親が幼いわが子を虐待して殺す。息子がキレテ親を殺す。学校ではいじめが横行し、自殺者が多数。そして、いじめが発覚した学校長が自殺する。など枚挙にいとまがなかった。
なぜ、このようになってしまったのだろうか?いや、昔もあったのかも知れない。確かなデータを持ち合わせていないだけかも知れない。それにしても、えー?信じられない!と驚かざるを得ないものが非常に多かった。
私は仮説を立ててみた。どちらかといえば昔は貧乏であった。生きるのに精一杯だった。しかし、その中でも、喜びをお互いに分かち合った。これは、家族もしかり。部隊では同僚・先輩と同じく喜んだ。
最近は、大小にかかわらず喜びを分かち合う習慣がなくなりつつあるのではないか。それよりも、「百点満点の状態を維持」しないと気が済まないという風潮がひろまったのではないかと思う。つまり、どちらかといえば、欠点を取らないようにしようという考え方が支配的になったのではないだろうか。百点満点のうち九十九点をとっても喜ぼうとせず、あとの一点を取れなかったことに後悔し、その結果自信を喪失する。その極端な例が欠点を洗い出すことに焦点をあてた「反省会」なるものである。家庭内においても「反省会」の考えが支配的になってきたのではないだろうか。
反対に、極端かもしれないが、百点満点のうち一点でさえとれたことに大いに喜びを味わう。そして、自信をつける、また頑張る。これが、かつての日本の高度成長期の文化であったのではないかと思う。
日本は四季が明確な島国であり、農耕民族として、冬が到来する前にその年の食料を確保してきた。その際、各地には必ずと言っていいほど、収穫を祝うお祭りかそれに準じた行事がある。まさに、一年の収穫を祝い、この先、生きながらえることに心から感謝するのである。
一般農家・農村における収穫作業は、苦労しながらも、朝早くから夜遅くまで行われる。なぜならばそれまでの苦労のすべてを成果として獲得する、最後の段階であるので力がはいる。そして、収穫を終え、家族全員あるいは村中で祝うのである。神に手を合わせ感謝する。特別なご馳走を作る。祭りに心から酔いしれる。
さて、俸給・給料を唯一の収入として生活している自衛官を含むサラリーマンは、給料日には特別な行事を行っているだろうか?給料は、銀行振り込みとなり、子供の前で妻から小遣いをもらっていないだろうか?働く父親としては、少なくとも、一ヶ月の収入を現金化し、子供が見ている前で、妻に給料を渡すぐらいのことをすべきである。そして、その日くらいは、特別な料理か一品多く食卓に準備し、家族全員で収入を得られたことに対し、感謝し祝うのである。大切なのは、皆で喜びを分かち合うことであると考える。
また、子供が、それまでできなかったことができるようになったこととか、わからなかったことがわかるようになったことなどに、同じ目線で喜んであげる。叱るときは二つ褒めて、一つだけ心を込めて叱る。そして、「子供中心」ではなく「夫婦中心」とし、仲良く、お互いを尊重し、子供に対しては、「うらやましいでしょう」という心構えで接していれば、子供は決してニートにはならないはず。そして、悲惨な事件は起こらないはずである。
祭りは、皆で喜ぶすばらしい習慣である。その本質は、喜ぶことにある。喜ぶネタがどんなに些細なものであろうと心から喜ぶべきである。
今、共に喜ばない人が増えたのかも知れない。現代人の最大の特徴かも知れない。